内側の記録

心裡に去来したものを雑に記録します

私たちが飢えた学生だった頃( #山手らーめん についての私的な記録)

ライフログが欠落した最後の世代として

読者諸賢はクラウドストレージを利用しているだろうか。私のAmazon Photosの中にはスマートフォンを持つようになった2012年からの写真およそ5万枚が保存されている(親のカメラを譲ってもらった2010年以降の写真も一部存在する)。平均して月に約500枚、1日約17枚、寝ている間を除くと1時間に1枚ずつ僕の人生が記録されている計算になる。

もっとも、これはかなり不完全な記録である。プライバシーの問題を乗り越えてスマートグラスが普及し、それが常に無線給電されるか人の体温で発電できるようになり、5G回線で無限のクラウドストレージに常にアップロードされるようになれば個人の人生はほぼ欠けることなく記録されるようになるだろう(私たちの記憶を完全にする代償として、そのログを巨大テック企業がマーケティングに利用するだろう)。後世からは、私たちは記録が不完全な最後の世代として記録されるかもしれない。

さて、その不完全な記録の中から(未だ不完全なAI判別に頼らずに)人力によってこれまでに食べた「山手らーめん」で撮影した写真を収集した。2日間かけて捜索したところ、最終的には約400枚が集まった(1食の重複した撮影、店構え、店員、友人を含む)。仮に1/3が重複等とすると、実食数は約270杯、年平均で約30杯となる。もちろん、毎食必ず写真で記録していたわけではないためもう少し多いかもしれないが、実際にいつ・どれだけの山手らーめんを食べたのかを完全な形で知ることはもはや不可能である。ライフログが不完全な世代の悲運として、欠けた記録を刻々と風化する記憶によって補うしかない。

 

初めての山手(イントロダクション)

さて、読者諸賢は山手らーめんを食べたことがあるだろうか。食べたことがあれば、最初の一杯がいつ・どのメニューだったか覚えているだろうか。

山手らーめんとは、東京大学駒場キャンパスの裏に本店を構えるラーメン店である。スープパスタと形容される自家製麺と独特のスープを特徴とし、最盛期には直営3店舗のほか複数のサブブランドや暖簾分けを擁する人気ラーメン店であった。残念ながら2020年3月に本郷店が惜しまれつつ閉店、来たる6月に駒場本店も閉店することとなり、国内で山手らーめんを食べることは不可能となる見込みである。

私の最初の山手らーめんはなんだったか。ストレージ内で最も古い写真が以下のものである(食べかけで申し訳ない)。撮影日は2012年5月17日の午後10時であった。

さて、山手に何度も通っている読者諸賢は違和感を持ったであろう。いくら駒場本店が古い・汚いといえどもカウンターはここまで黒くはない。心なしかラーメンも黒く見えてくる。そう、私が初めて食べた山手は(駒場本店ではなく)なんと代々木上原店の黒らーめんだったのだ。

最も、これはあくまでも記録上の話である。初めての山手は受験前日の下見に訪れた2012年2月の本郷店(おそらく大方の初来店客と同様にみどりらーめんを頼んだ)と記憶しているが、記録が残っていない以上は定かではない。兄に訊けばもしかするとわかるかもしれないが。

f:id:Tuesday_Ver8:20200529014053j:plain

(記録上)最初の山手


その次の写真は1ヶ月半後の7月1日のものだ。この日は2杯の写真がある。といっても僕が2杯食べたわけではなく、片方は母親が頼んだものである(おそらく初来店の母がみどりらーめん)。他の写真を見るとこの日は兄がバイトで厨房に立っており、山手で一家団欒の時間を過ごしたようだ。

喫食頻度が低いことや、家族の誰かと来ていることを踏まえると、2012年上期の私にとっては山手は特別なときに食べるご馳走であったようだ。当時の私はバイトをしておらず、親からの仕送りに生活費の全てを頼っていた。よく兄に食材を買ってきてもらい2人分の食事を作っていたことを覚えている(し、写真も残っている。正直いって当時の私のほうが今の私よりも料理スキルが高い)。この次の山手はなんと2ヶ月後の8月30日。このままでは上記の年平均30杯の頻度には到底届かないが、2012年10月に転機が訪れる。

f:id:Tuesday_Ver8:20200529231056j:plain
f:id:Tuesday_Ver8:20200529231124j:plain
母と食べた山手(焼きねぎ、みどり)

 

山手黄金期⑴とその個人的な終焉

大学最初の夏休みが特に何事もなく明けた10月、兄の勧めで私も山手でバイトをするようになった。それまでなぜバイトをしていなかったか?上京後の4月に失恋し、地方出身東大生に普遍的な学力ショックもあって夏学期は引きこもりがちだった。同じ理由でサークルにも入っていなかった。バイトをすることになった経緯は記憶にないが、おそらくは「賄いつき」と「兄にできるバイトならば高い確率で自分にもできる」というのが理由であろう。

f:id:Tuesday_Ver8:20200531214005p:plain

当時のメモ らーめんを提供する合間に基本のタレやスープの出汁の仕込みも行なっていた

さて、お客さんにラーメンを提供するとなれば全てのメニューの作り方・味を把握することが求められる(稀にアレルギーや宗教的禁忌の問い合わせを受けることがある)。山手のバイトはまずはゆきからつけ麺に到るまでの全メニューを賄いで一周することが研修の一環となっていた。私が山手の味覚の虜になったのは間違いなくこのときの経験によるものだ。ゆき脂の甘さ、焼きねぎの香ばしさ、焼きにんにくのコク、唐がらしの旨味、トマトの酸味…それらが出汁の効いた柔らかいスープと独特なコシのある麺と一体となった様は小宇宙と言っても過言ではない。この世に二つと無いメニューを作り上げた社長はまさしく天才であると痛感した。

シフトは週2程度、夜に入ることが多かった(駒場祭などイレギュラーなケースで昼に入った記憶がある。昼のシフトのほうが短時間に客が集中するため忙しかったようだ。また、実は昼と夜とでは厨房での鍋の配置や動き方が異なるほか、スープの濃縮具合なども異なるため味も微妙に違った)。基本的には社員1・バイト1のオペレーションで、一緒に働く社員はAさんまたはOさんのことが多かった。特にOさんは風貌が厳ついため客の立場からは愛想がいいとは言えなかったが、AさんもOさんも9時台の客がひと段落すると小銭を握らせてコーヒーやアイスをおごってくれることがあり、ありがたかったことを覚えている。

全メニューを制覇した後は、好きなメニューを食べることが許されるようになった。メニューにはない組み合わせを試すほか、トッピングを追加することも黙認されていた。個人的には「焼豚辛ねぎ」という焼豚の端の細切れと白髪ねぎを辛味噌で和えたものを好んで食べていた。また、加熱が不十分で崩れてしまい客には出せない半熟の味玉がとても美味しかった。夏になるとつけ麺をよく賄いにしていたが、これにのりやねぎなどを足していくと1000円を超える代物となるため、客の立場では到底食べられないものを役得としてずるずると頬張っていた(社長、ごめんなさい)。

f:id:Tuesday_Ver8:20200531222427j:plain

f:id:Tuesday_Ver8:20200531222544j:plain

焼きねぎ+焼豚辛ねぎ(750円相当)、鰹醤油つけ麺+のり、煮卵、焼豚(1000円超相当)

バイトを始めた当初は深夜3時まで営業しており、バイトも日付を回ることがままあったのだが、いつしか営業時間が深夜1時までに短縮され、バイトも午後10時で上がるようになった(と記憶している)。賄いは基本的に客足の絶えた8時・9時に食べるのが不文律となっていたが、団体客が入るとタイミングを逃して食べられないこともあり、空腹では肉体労働に支障があるため5時ごろに店に来てバイト前に食べることもよくあった。この場合はバイトが終わる夜10時になると空腹を覚えるため、社員の好意に預かってバイト後にも2度目の賄いを食べていた(社長、ごめんなさい)。当時の私は地方から上京したばかりで、お金も人付き合いもなく、まだ自分が何者かもわからない、飢えた学生だった。

f:id:Tuesday_Ver8:20200531224304j:plain

f:id:Tuesday_Ver8:20200531224308j:plain

2013年12月28日の賄い(17時:まぜそば 22時:焼きねぎ+ねぎ)

f:id:Tuesday_Ver8:20200531224312j:plain

f:id:Tuesday_Ver8:20200531224316j:plain

2013年12月29日の賄い(17時:トマト+焼豚バラ2枚 22時:焼きにんにく+ねぎ)

2日で4杯は明らかに食べすぎである。年末に働いたということでお許しください

夜は色々な客がやってくる。一人で来る学生、団体でやってくる運動部や文化部の学生…応援団の学生が先輩の食後まで店外で出待ちして「お疲れ様でした!」などと大声で挨拶していたのには唖然とした。 学生たちが去ると、近所に住むカップルやタクシー運転手がやって来る。らーめんを頼まずに焼豚・味玉・メンマとビールを頼んで晩酌する客もおり、そういう楽しみ方もあるのかとまだ飲酒の喜びを知らない未成年には驚きだった。バイト中の最も変わった体験として、「らーめん6杯を麺1/6で出してくれ」と食券6枚を出してきたお客さんに遭遇し、らーめん評論家か、海外駐在など余程の事情があるのかと訝りながらAさんと一緒に6杯分準備したことを覚えている。

ただ、この幸せな時間も1年と少し経った2014年初めに終わることとなった。理由の一つは、2年の冬学期に入り本郷キャンパスでの授業が増えて移動が多くなったこと(授業そのものもハードになった)。もう一つの理由は、胃腸炎で入院した兄が副次的な検査で重度の脂肪肝であることが発覚したことだ。原因は明らかに山手の食べ過ぎだと思われた。本郷に進学した山手バイトはそのまま本郷店で引き続きバイトすることが多いが、こうした理由から僕はバイトを続けず、勉強に一時専念することとなった。

 

ちなみに、その後のバイト遍歴は2014年の初夏から友人の実家の焼肉店の厨房で数ヶ月働いた後、秋から学科の先輩の紹介で大手シンクタンクにて3年ほど働いた。焼肉店の厨房では最高級A5ランク和牛肉を皿に並べたり皿を洗ったりしていたが、夏休みに実家に帰ってシフトを空けていたらネパール人の留学生が後釜に座っていた。今でもたまに行くと「おい!厨房入って皿洗え!」と店長にどやされる。

シンクタンクでは主にインフラ系の調査の補助をしていたが、3月の納期がギリギリで終電間際まで働かされたりゴールデンウィークにエアコンが止まったオフィスに呼び出されて納品後の手直しをしたりとハードな働き方を体験した。その後、電通の一件を受けて受注を減らすなど働き方改革が進んだことで社員もアルバイトもだんだん人間的な働き方になった(上司の顔色が明らかによくなった)。愛着もあったので就活の際にエントリーしたが、「キャリア相談会」名目の闇面接で落ちた。