内側の記録

心裡に去来したものを雑に記録します

レプリカントは本物の愛を得たか?

※『ブレードランナー2049』のネタバレをします。以下は個人の感想です

 

 ちょうど学内上映会(といっても大礼堂でスクリーンが4m×9mくらいあって音響も身体が震えるくらいしっかりしてます。25元=約400円)があったため、『ブレードランナー2049』の2回目を観た(英語音声+中国語字幕なので2回観て7割分かったかどうか…登場人物がボソボソと喋る上に言葉とその意味するところに乖離があるので、他の映画に比べて英語音声を理解しづらい気がする)。

 

 『ブレードランナー2049』という作品は、主人公のオフィサーKジョー)が「作られた(made)もの」ではなく「生まれた(born)もの」(=魂を持つ本物)を探し求める過程を通じて、「人間とはなにか」「本物とはなにか」と問いかけ、人間を拡張し本物を再定義する試みであると思う。

 そして、この2つの問いが組み合わさったものが、「本物の愛とはなにか」という問いだと言える(例:ウォレスはデッカードに対し、「レイチェルに対する愛はデザインされたものではないか」と問いかける)。ジョイはジョーに対し、「作られたのではなく生まれたという事実が、本当に愛されていたということを意味している」と囁く。ジョイはジョーに対し、「私はあなたを愛してる」と囁く。結局のところ、ホログラフで表現されたAIであるジョイ、そして産み落とされたレプリカントではなかったジョーも作られたものに過ぎないのであるが、それでは彼らの愛は本物ではなかったのだろうか。その問いに対する答えが最後の一連のシーンで描かれているように思う。

 

 ステリンの研究所を前にして、ジョーデッカードに木彫りの馬を手渡す。ジョーにとって、この木彫りの馬は「本物の愛(によって生まれたこと)」を象徴するものであったが、彼はそれが自分の身に起きたことではない「偽物の事実」であることを既に知っている。それはジョーにとってはもはや意味をなさない不要のものである。

 その後、階段に腰を降ろしたジョーは降る雪を軽く手で握る。このシーンで、ジョーの手、そして身体に降り注ぐ雪は、ジョーに触れた瞬間に溶けて消えるもの=ジョーに消して触れられないが、確かにそこに存在するジョイを象徴していると考えられる。ジョーは木彫りの馬を失ったが、空から絶えず降り注ぎ、彼の身体を包む雪によって、ジョーに対するジョイの愛が本物であったことを知ったのではないか。それ故に、彼は雪が舞い落ちてくる空を見上げて安らかに微笑んだのである。

 同じ頃、屋外にいるジョーとは対照的に、無菌室の中のステリンはホログラフの雪に打たれている。このシーンは、本物の愛の結果として産み落とされたステリンが、雪に象徴されている本物の愛を本当には知らないということを意味している。そして、これから本物の愛を本当に知るであろうことを、ステリンと外の世界を隔てるガラスに触れたデッカードの手が示唆している。

 

 最後のシーンで降っている雪は、ロサンゼルスの街中に降る雪よりもずっと白い。本物の愛は無垢で、同時に儚いものであるが、無尽蔵に降り注ぐことで、醜悪な世界も、悲惨なジョーの傷も覆い隠すだろう。