内側の記録

心裡に去来したものを雑に記録します

私的な記録について

問い:私的な記録に意味はあるのだろうか。

 

記録の定義

記録には、公的なものと私的なものがある。

公的な記録というのは、行政文書や、統計や、報道などといった社会的におおむね正しい情報が保存されたものである。それらは集団としての意識の形成に寄与し、後世に継承される。

私的な記録というのは、個人の内面に生じる役にも立たない、意味もないことをつらつらと書き連ねて保存したものである。そのうちの才ある人によって記されたものが、後世になって価値あるものとして多くの人に読まれたりする(枕草子とか、徒然草とか)。

 

問題意識

文明の進歩に伴って、記録することのコストは劇的に下がり続けている。同時に、日々星の数ほども量産されている記録は、その内容の価値が下がり続けているのではないか。その中で(才のない人間である私が)あえて私的な記録を残すことに意味はあるのだろうか。

 

ある村における記録に関する記録

私の先祖が住んでいた村で、私の父親が唯一の写真を撮る人間であった。

村人たちにとって、昨日と今日と明日は同一のもので、わざわざなにかを記録する意味はないように思われた。その中にあって日々の生活を写真に記録していた父は風変わりな人間であった。

父の母、つまりは私の祖母が亡くなった時、村人たちは葬儀の傍らで流されたスライドショーによって、一人の人間の一生が連続した断片として記録されているのを初めて見た。その記録の中では昨日と今日と明日は同一ではなく、そこにはその一瞬の感情があった。意味のない日常の記録にも、過去の感情を再び想起する作用があった。

 

今は意味が見出せない記録も、後から振り返ることで意味が見出せるのかもしれない。